今、ここ、どこか30 Yuuki
- 川上 まなみ
- 3月14日
- 読了時間: 4分
2026年2月の日記 平尾勇貴
2026/02/XX
ひととおりのいきさつを聞いたのち、水煙草の煙を吐きながら、いよいよ深刻そうな友人がわれわれの共通の知人であるXさんのことが気になるのだと言い、あーなるほどね、はいはい、じゃあもう一人くらい誰か誘って四人くらいの飲み会セッティングするわ、ありがと、頼むわ、あいあい、そん代わりおごりな、え~、みたいなベタな会話をし、そんなわけでおれは数年ぶりにするこういう立ち回りにかなりテンションが上がっている。他人の恋模様はいつになってもエンタメだから。
2026/02/XX
棚から白い器をとりだして、ヨーグルトをおおきなスプーンで三杯、オートミールをカップで一杯、適度に混ぜ合わせて、前日の夜から冷蔵庫に冷やしてあったバナナを輪切りにしてそこへ混ぜ込んだ。習慣、あるいは思考を必要としない作業。朝食を食べ、服を着替え、出社して仕事用のPCを立ち上げるまではほとんど習慣化した動きだけで、寝ながらでもできる芸である。
2026/02/XX
仕事終わりに友人と長電話。おれは性懲りもなく大江健三郎『万延元年のフットボール』を引きながら、本当のことを云うことについてだらだらと考えを述べ、数か月似たような話をしているものだからさすがに飽きられるかと思ったが、どうしてかよく分からないけれども謎に熱意が相手に移ったのか、友人もまたすでに何度か考えたであろう話し方で自分はこう思うということを言い出した。すべての文学は、本当のことを言えるかどうかなのです。知っていますか?
2026/02/XX
ひさびさに予定のない、いちにち休みの日で、昼前にのっそり起き上がり、昨日の晩御飯の残りを食べながら、今泉力哉「冬のなんかさ、春のなんかね」を最新話まで見ていた。構図にも長回しにも今泉力哉ワールドが色濃く表れていてそれなりに満足して見たのだけれども、微妙に若さが貼りついているような、それも20代半ばくらいまでに憧れていた20代後半の恋愛だな、と思ってしまって、いやいや現実こんなもんじゃないですよ。でもどうなんやろうな、歌人や詩人同士でも似たような噂はあるから案外リアルなのか。しかし今泉監督のサブカルへの解像度の高さ。そのうち短歌が、歌人が登場すると踏んでいる。
2026/02/XX
同業の後輩がほんとうにすごく優秀で、その年次でそんなに仕事ができてしまったら、これからいったいどうするのか心配になる。社長になるのかな。
2026/02/XX
りんてん舎でわたしは玉城徹『馬の首』を手に入れたあと友達と三鷹を歩き、いろいろな草木の名前を教えてもらいながら、ふたりは井の頭公園へむかい、公園のなかほどにあるベンチに腰掛け、わたしはさむいさむいと言いながらパンを取り出した。それはクロワッサンとフランスパンで、パンのイデアのような味がするほんとうに美味しいパンで、友達もパンを取り出したから、うまいうまいと言いながらふたりは食べた。あたりは薄暗く、時刻は夕方六時に差し掛かったところだった。わたしは数日前から窪田空穂「藤原俊成の歌論 主として艶と幽玄と本歌取につきて」を読んでいたから、その友達に喋る話題はだいたい俊成にまつわる話だった。俊成の「幽玄」や定家の「有心」という言葉は、その出典にあたってみてもしっかりした定義があるわけではないようだ。それらはいわゆる空虚なシニフィアンであって、意味や論理の体系のなかでその概念を考えようとするなら、そこにシニフィエを充填することができるのだけれど、実際は俊成も定家もそうしなかったのだから。
そもそも幽玄や有心という言葉によって指されるその対象が、意味や論理によって成り立つようなものではないから。あるいは幽玄や有心がかりに意味を持ったとして、その意味が幽玄や有心の本質とは何の関係もないような在り方をしているから。ある種特殊なその在り方を、意味をもってして言うことが出来ないのは当然だから。幽玄も有心も空虚なシニフィアンだけれど、空虚なまま差し出すことが、そこに意味を充填し論理を見出すようなやり方以前の方法で考えるという、知恵だったのではないか。ということをわたしはときおりその断片を、ここで書いたよりももっとあいまいな、出来かけの言葉をつかってつぎはぎしつつ喋り、そうしているうちにふたりが流れ着いたのはジンギスカン屋で、ジンギスカンをおいしいおいしいと食べたのだった。ラム肉の脂肪は融点が高いから。





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