今、ここ、どこか31 Hika
- 川上 まなみ
- 3月21日
- 読了時間: 3分
月面に書かれた短歌 武田ひか
短歌はSNSのタイムラインだけのものではないし、さらに本の上だけのものでもあってほしくない。
友達と一緒に瀬戸内国際芸術祭をまわっていたとき、「The Waiting Point」という林恵理の作品があった。歌人の𠮷田恭大が作品の一部として短歌を書いており、その事前情報はたぶん出発時点では知らなかったのだけど、島にある暗い部屋で部屋の中をぐるぐる見渡しながら短歌を読むのは新鮮でおもしろかった。もう四年前になってしまったから、細かいところは覚えていないのだけど懐中電灯で照らしながら読んだような記憶もある。
もう一つは行けなかったのだけれど「colony vol.3」で、夜夜中さりとてが企んだ、双眼鏡で短歌を読むという試みも印象に残っている。想像するだけで心おどるアイデア、遠く離れた言葉へ自らピントを合わせにいく。縦型動画が流れすぎる昨今で、読む行為、探す行為そのもの喜びを思い出させるようだ。参加したかった。
短歌ではないが最果タヒの「われわれはこの距離を守るべく生まれた、夜のために在る6等星なのです。」を仙台で観たときのことも思い出す。最果タヒは現代詩のフィールドで書いているひとだけど、わたしはずっと短歌のことを思い出していた。詩と一緒に写真をとった。短歌を読む行為は個人的なものだ。けれど、天井からひかる言葉は、隣にいる人と指をさして共有できる実体を持っている。2026年に角川武蔵野ミュージアムで行われている感情展はどのような仕上がりだったのか気になる。
もしも言葉を遠くに置けるとしたら、まず一周目として、月に短歌が書いてあったらいいなとアイデアをだすだろう。望遠鏡でのぞいたら何が書いてあるのだろう。凝らせば見える位置に書いてあるというのはおもしろいと思う。あとは言語のちがうところに書いたりしてみる。チェコのお城の落書きで日本人観光客の名前がぽつりと書かれているときはなぜか嬉しいように、そこに日本語で短歌が書いてあるのはどきりとするはずだ。
しかし架空の人間が私の頭の中で呟いたように「短歌は紙に書いてあるものがすべて」だという意見もあるのかもしれない。つまらない短歌が別のメディアにみだりに書いてあったとしてもしょうがないのだが、まあ、おもしろい短歌をたくさんもう少し放流するっていう試みはあっても良いと思う。いややっぱり紙に書いてあるものも大半がつまらないので、つまらなくたってどこに書いても良いだろう。
こういうふうに曇り空の一室でぐるぐると考えていると、やはり短歌は「一首」にこそその楽しみが宿るものではないかと思えてくる。連作は歌のバリエーションを増やすために生み出された単なる道具でしかないのではないか。なんらかの理由で紙がなくなって本がなくなって、一箇所にたくさんの文字を一人で書くということがスペース的な観点で贅沢品になっていくとき、やはり限られたスペースには一首での名歌が書かれる。木に書かれた一首、石に書かれた一首。いまから別のところに名歌を書く練習をはじめるのも良いかもしれない。






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