今、ここ、どこか34 Rin
- 川上 まなみ
- 4月11日
- 読了時間: 2分
名前を知らないモチーフと短歌との距離 長谷川麟
家の裏に、片道二〜三キロほどのトレイルがある。土日になると、そこを一往復、あるいは二往復して散歩をする。道すがら、たくさんの鳥や植物と出くわす。日本で生活していた時は、そういう生物を見た瞬間に、だいたい名前が浮かんだ。スズメ、ツバメ、サギ、たんぽぽとか、椿、木犀、そういう風に。特別に詳しいわけではなくても、生活の中で何度も呼んできた名前がたくさんある。
けれど、アメリカで同じように散歩していても、そういう訳にはいかない。トレイルにはさまざまな種類の植物や動物たちがいるけれど、基本的に、私は彼らの名前がわからない。赤い鳥、大きな鳥、尾の長い鳥。そういう漠然とした把握ばかり。リスはリスだとわかるし、松は松だと分かるのに、鳥となると急に言葉が途切れる。植物も同じで、見覚えはあるのに、呼びかける名前が出てこない。
短歌にしようとすると、そこに一つの段差が生まれる。名前がわからないままでは、どうしても歌にできない。だから一度、検索する。その鳥の名前を調べて、その名前が日本語の短歌として使えるか、日本の読者にとって像を結ぶかどうかを考える。そのうえで、使えるかどうかを判断する。
この「検索」というフェーズを挟むことが、どうしても気持ち悪くて結局歌にならないことが多い。トレイルで得た感覚から、いったん切り離されるような感じがして、目で見て、身体で感じたものが、そのまま言葉にならない。生活の延長線上にあったはずの短歌が、編集や選別の作業に引き戻されてしまう。
これまで自分は、叙情というものは、体験そのものから自然に湧いてくるものだと考えていた。けれど実際は、見たもの把握したものがその瞬間、言葉に置き換わって立ち上がっていたのではないか、と思うようになった。いくら見ているものが新鮮で、刺激的であったとしても、言語野を刺激されなければ、それが短歌になるまでには思っているよりも距離がある。一般に旅行詠が難しいと言われる所以もこういうところにあるんだろうと思う。
モチーフそのものよりも、名前に対して、叙情が生まれる。そんな感覚が変に芽生えて、最近は無理して海外を詠むこともなくなった。検索を挟まないと呼べない存在には、作歌のフェーズに無駄が多い。見た瞬間、感じた瞬間、歌になっているモノと比べて遥かに遠いところにあるような気がしてしまう。
椿見ぬ春はさみしき うすくうすく紅(べに)さし死ののちも日本人/小島ゆかり『ヘブライ暦』






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