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今、ここ、どこか33 Manami

  • 執筆者の写真: 川上 まなみ
    川上 まなみ
  • 5 日前
  • 読了時間: 3分

春の忙しさとカオマンガイ 川上まなみ

 

 ル・クルーゼというお鍋を結婚祝いにいただいて、それをやっとで開封したのが先週の土曜。結婚したのはいいものの、私たち夫婦は一緒に住んでおらず、三月の末にようやく二人の部屋を手に入れた。生活しはじめて一週間、まだ家具も調味料も揃っていない、段ボールの転がる部屋で、私たちは四月の忙しさを過ごした。


 どちらも教員をしているので、今は一年の中でも一番忙しい時期だ。準備準備準備…何に追われているのか、何をしなければいけないのかを把握すらできないまま、私はル・クルーゼの箱を開けた。美しい色の鍋が箱から出てきて、私はこんなにも忙しいのに、なぜか、「四月一日は、これでカオマンガイを作ろう。」と決意した。


 カオマンガイはタイの料理で、味を付けたご飯の上に茹でた鶏肉を乗せて食べる。私は、ル・クルーゼでお米を炊きたいと思っていたので、一緒に鶏肉を入れて調理すれば楽に作れる。これなら忙しくても大丈夫、と思った。なにより、忙しいからこそおいしいものを食べて癒されたかった。


 四月の学校は、緊張と不安と期待が入り混じって、幾つかの香水の匂いを一気に嗅ぐかのような、濃い空気になる。生徒は浮かれているものも、緊張しているものもいる。教師は、たいてい忙しい。春の一日は、やるべきことが多く、ざーっと過ぎていく一日なのだ。それでもミスは許されないので、慎重にしかし素早く確実に。春は怖い。春は、濃くてむわっとして、それぞれの期待が大きくて、そして緊張しっぱなしの疲れる季節だ。もちろん、そんな思いだけではなくて、どんな子たちに出会えるのか、どんな授業をしようか、わくわくする季節でもあるのだけれど。


 おいしいご飯を用意しなければ。帰宅してへとへとの私に力をくれるものを。四月一日は、少し早く帰って、私は鍋の中に洗ったお米と調味料、そして鶏肉を一枚どんと入れた。


 夫がやっとで帰って来た頃、お米が炊きあがった。少し蒸らす間に、お互いの学校の話をして過ごす。新しい学校の国語の先生について。一番初めの授業でどんなことをしたいか。前の職場の先生が連絡をくれたこと。話題は尽きないまま、話をしながら、カオマンガイを盛り付け、食べる。鶏肉が柔らかくて、お米は鶏肉のうま味を吸って美味しかった。味わいながら私たちはまた仕事の話をした。


 今年度が始まる。アイルランドにいたときのような、ゆったりと余暇を楽しむような時間がここにはない。けれど、ル・クルーゼでお米を炊くだけで、ちょっとした、しかし美味しいご飯を作って食べるだけで生きていける気がする。


晴れているけど強い風 にふかれながら およそ一駅分を歩いた/吉田恭大『フェイルセーフ』


 明日からまた忙しい日々に戻らなければ。強い風が吹いている中を、でも明日はきっと晴れる。明日も頑張れることが、私には今少しだけ嬉しい。

 
 
 

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