今、ここ、どこか10 Yuuki
- 川上 まなみ
- 10月11日
- 読了時間: 5分
2025年9月の日記 平尾勇貴
2025/9/XX
この文章を書くのは下山し東京に戻ってしばらくしてからで、どうやってその山に登ったか記憶を思い出せない。どうやってその山に登ったか、知識としては知っている。9月半ばの金曜日に有給を取り、友人と合流して山梨県甲府市へ特急あずさで向かい、甲府市の付近で一泊した。そして翌日甲府駅から出るバスで登山口まで移動し、そこから登り始めたはずだ。たしか3泊4日で鳳凰三山を縦走する行程だった。知識は雄弁だけれど、記憶は寡黙になる。記憶があるのはおそらく2日目の登山途中の光景からで、しかし記憶は書くことはできない。これから書くのは記憶に似せた何かだ。
2025/9/XX
登山口からしばらくは木杭と丸太でゆるやかな階段をつくるようにして舗装された道が続いていく。ブナやミズナラの木々に囲まれているあいだを軽快な歩調で前へ進む。木々の幹が平地でみる木々よりも太く、地面を掴むようにして生えている。木肌の皺は深く彫られていて、濃い翳を作っている。秋風がやわらかく吹いている。ぼくたちは奥へ山道を進んでいった。道中で何人かの軽装の登山客とすれ違った。次第に人気がやみ、森の匂いがぐっと濃くなる。階段の蹴上も緩急がついてくる。そのうち木杭や丸太も置かれず、踏まれた土が削れているだけの道が続く。息が上がりそうになる少し手前で岩に腰を下ろす。両手のトレッキングポールに体重を預けて、一息ついてからまた山道に戻る。木々の皮はじっとりと湿り、ところどころ苔がむしている。いつの間にか道らしき道はなくなり、木や岩に手をかけることが増えてきた。剝き出しの木の根と大小の岩をよじ登って乗り越えるようにして前へ進む。視界を広く持てば、木の幹や枝にピンクの蛍光色のリボンが結び付けられているのが目に入る。これが登山の方角の目印だ。途中途中、リボンを確認する。湿度が高くなり、地面がぬかるむ。登山靴によろわれて重心が低くなっている足を、ひとつひとつ持ち上げては地面に置くようにして歩く。しばらくを登っていくと、階段の踊り場のような狭い平地があった。アプリで確認すると標高1,000mを過ぎたあたりか。足元を見ると登山靴の靴跡がおびただしく残っている。
枝や幹で身体を支えながら、喬木の間の細い道を進む。登山用上着のナイロン素材と、道にせり出した枝葉とがかさかさ擦れる音がする。手は幹を掴み、足は木の根を踏む。手足がわがままに動き、身体がずんずんと前に進んでいるのを、なにも指示を出すことのない手持ち無沙汰な司令官のように、意識はぼんやりと眺めている。そして眺めていることすらも忘れてしまう。景色はずっと動いている。ときおり風が吹きあたり、木の葉の揺れる音がする。岩壁に行き当たってふと立ち止まると、にわかに意識が覚めたように、突如として高山の景色が視界に一気に開けた。日差しが眩しい。谷を挟んで相対する峰の斜面が、晩夏の強い日差しを受けて白んでいる。峰の日陰には岩肌が見える。岩の肌理が粗い。何の気のなしに肌理を見つめていると、いつの間にか岩肌がこちらに迫ってくるように思える。遠近感が狂いだす。手を伸ばしたらもうすぐ肌に届きそうだ。自分が立つ場所と、向こうにある岩肌がひと続きになっているような、ありもしない平面が立ち現れてくる。急に心細くなって、そんな妄念を振り払うようにして、もう一度意識の焦点をいまここに合わせる。手で凭れていた岩壁の感触を確かめる。右足を前に置く。左足を前に置く。トレッキングポールを硬く握り直して、前進のリズムに腕の振りを同調させる。山にいるという恐怖を思い出す前に身体が動くようになると、また司令官はぼんやり景色を眺めはじめた。

2025/9/XX
簡素な造りの山小屋の、母屋に増築したように小屋から少しせり出しているスペースで、本を読むことにした。目線よりやや高く設えてあるガラスの窓から、手元に弱い光がなだれている。大江健三郎『万延元年のフットボール』は数か月前にようやく7章まで読んだけれども、8章のタイトルにくらくらしてしまいしばらく読み進められないでいた。

「8 本当のことを云おうか/(谷川俊太郎「鳥羽」)」。本当のことを云おうか、という言葉を真に受けたわたしは、数か月ずっと立ち止まり、本当のことを言われると困る、困るから、この章を読もうかどうか、考えて、読むためにはいきおいが必要に違いないと考えて、山に持っていくことにしたのだった。山なら、逃げ先がないから、読めるだろう。
「本当のことを云おうか」。これは、丸括弧書きにあるように、もともとは谷川俊太郎の詩「鳥羽」にあった言葉の引用で、谷川は続けて「詩人のふりはしてるが/私は詩人ではない」と告白する。わたしは、それを信じる。詩人はつねに、(自分は詩人ではないと言い切る場合においてさえ)本当のことを言えるから。というよりはむしろ、嘘をつこうとしても、その詩形ゆえに本当のことを言ってしまわざるを得ないから。
本当のことを云おうか。小説家である大江が本当のことを云おうか、と語るときの迫力が、8章を読み終えてもいまだに消えないでいる。『万延元年』の読書は9章へ突入した。
かわせみよ 波は夜明けを照らすからほんとうのことだけを言おうか
/井上法子『永遠でないほうの火』
波が夜明けを照らすことに勇気を得て、強く背中を押してもらう気持ちはわかる。
いえそれは、信号、それは蜃気楼、季節をこばむ永久のまばたき
〈おかえり〉がすき 待たされて金色のとおい即位に目をつむるのさ
/同上
たしかに井上は本当のことを言い得ている数少ない歌人であるように思えるけれど、おそらくそれは詩人でもあるからだろう。作中主体を仮構してしまえる歌人は、本当のことを言えるのだろうか、と短歌はわたしに問い返す。
2025/9/XX
つつがなく下山した。その日の夜にヤフーニュースで、かつて自分が登った別の山で遭難者が出たという報道を見かけた。
2025/9/XX
ベケット『モロイ』の読書は遅々として進まない。
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