今、ここ、どこか18 Yuuki
- 川上 まなみ
- 2025年12月9日
- 読了時間: 4分
2025年11月の日記 平尾勇貴
2025/11/XX
朝から晩までぎちぎちに予定を詰めた日だった。友達とお茶、服を買う、振込、トークイベント、家電を買う、飲み会。インスタで会社の体力オバケ同僚の体力オバケ活動を目の当たりにしているおかげで、引き上げられるおれの活動量というものがあり、ありがたい。かれらかの女らは、深夜までクライアントワークをした後に飲み会に行き、翌日は朝からゴルフをやるという芸をやってのけ、なんというか率直に格好よく、スポーツにおける人間のそこはかとない可能性を感じられるような素晴らしいプレーを見せてもらったような気持ちになり、おれはほんとうに嬉しくなる。
2025/11/XX
友人の娘さんがマスコミ志望で、おれが新聞社勤務だから進路相談に乗ってあげてほしいとのことなので仕事終わりに友人を交えてzoomでお喋りをする。就活中で悩んでいるのかなと思ったらどうやらまだ大学二回生(二〇〇五年生まれ!)で、頭がくらくらしてしまった。就活のためにどんなことをしたらいいでしょうか、と問われて、しかしおれは怠惰に過ごして出来るなら働きたくなかったけど仕方なく就職した側の人間なので、その人の就活のために何かしなきゃ、みたいな焦燥感が全然分からなくて、たぶんおれは相談相手として相応しくないんだろうなと思いながら、何かそれらしいことを喋った気がする。ほとんど人生相談めいていた。どちらかといえば人生を相談したいのはおれのほうなのに。
2025/11/XX
仕事終わりに近所のドトールで本を読む。月末のトークイベント(瀬戸夏子✕星野智幸)に向けて、星野智幸『目覚めよと人魚は歌う』。本を読みながら頭は別のことを考えている。未だに谷川俊太郎の「鳥羽」が頭から離れない。何かものを書く人の人生には谷川俊太郎の「鳥羽」が頭から離れなくなる時期があるらしい。記憶だけを頼りにその冒頭を書きつけてみると、〈何ひとつ書くことはない/わたしの肉体は陽にさらされている/わたしの妻は美しい/わたしの子供たちは健康だ/本当のことを云おうか/詩人のふりはしてるが/わたしは詩人ではない〉……。この詩について他の人が言うには「何ひとつ書くことはない」と書いておきながらそれでも書き続けることに意味を見出されがちだけれども、わたしにはむしろ「本当のことを云おうか/詩人のふりはしてるが/私は詩人ではない」という部分が、そういうことを書いてしまえるのだという印象として残っている。あるいは本当のことを云おうか、という迫力の後に続けることこそが。
2025/11/XX
学生時代からの友人が結婚したのでそのパーティーへ向かうために岐阜へ。東京から向かうルートは東海道新幹線で名古屋を経由するパターンと北陸新幹線で富山を経由するパターンがあったのだけれど、どうしても寒ブリが食べたいという意思が後者の選択肢を選んだ。富山駅のすし玉でぶり、ぶりトロ、のどぐろを食す。冬の日本海の魚は絶品だった。魚は瀬戸内海派だったが、揺らいでいる。友人の結婚パーティーは、友人の家族や周りにいるひとたちの手作りであることがすばらしく、ほんとうに楽しかった。なにごとも自分たちで手作りするのが、よい。と思った。おめでとう。
生きるってどうもひとりには戻れない 眼に夏の庭が広くて
白木蓮とろとろと散る言葉では伝えられないことの多さに
/川上まなみ『日々に木々ときどき風が吹いてきて』
2025/11/XX
瀬戸夏子✕星野智幸のトークイベントが終わった後の時間で、星野さんに赤面しながら本当のことをいうためにはどうしたらいいですか、というようなことを自分の持ちうる言葉をできるだけ尽くして聞いてみたら、即答というはやさで、かつ丁寧に、その問い自体を疑っているというような返答をもらって、めちゃくちゃ嬉しくなった。
2025/11/XX
朝からスタバで読書。文フリでお使いを頼んでいた歌書や文芸書など。とある詩人が、賞をもらってから本に書き込みが出来るようになったと日記に書いていた。賞という社会の権威が、本来は書き込む=本を毀損する行為に、その人の研究の痕跡としての価値を付与することで書き込みが正当化され、許されるという理路。わたしもそう考えて五千円などするような本にも書き込んだりするようになった。馬鹿じゃないか。そんなややこしいことを考えずに、ふつうに書き込めばいいだけなのに。(ひとつ付け加えておけば、冒頭のとある詩人などは存在しない。)






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