今、ここ、どこか27 Rin
- 川上 まなみ
- 2月14日
- 読了時間: 4分
韻律論について 長谷川麟
韻律論が少しだけ話題になっている。
自分の専門は工学だから、実践屋。
だから理論屋の話は、正直、話半分にしか聞いてない。
特に「韻律いい」、人が何を「気持ちいい」と感じるかどうかという感応性について、それを理論という視点から一般化して話すことができるのか、いつも懐疑的な気持ちになってしまう。
例えば、年齢、性別、地域など属性を絞って膨大なアンケートを取るなどしたら、たぶん有意な傾向を見ることができると思う。でも、だからといって、それは特定の時代の、特定の属性の傾向に過ぎなくて、仮にそれでデータを取って評としてまとめたとしても、評としての寿命が、効果が、その労力に対して見合うのかどうか、結構微妙じゃないかと思う。
ただその一方で、そういう研究が、即効性のあるプロダクトに直結するかどうか、という物差しでしか価値を測れていないのだとしたら、それは自分の側の視野の狭さかもしれないし、あまりにも工学の視点で考えすぎてるかなとも思う。理論が直接何かを作るのではなく、批評の言語を整備したり、教育の補助線になったり、あるいはもっと先の創作支援技術の土台になったりする可能性も、当然あると思うし。
でもやっぱり実作者の私としては、この研究が、そこまで魅力的な研究になるとは思えなくて、(研究とか評論って視点の価値ではなくて、読み物としての面白さはあるのかもしれないけれど…、)その研究結果が、どういうプロダクトに将来的につながって、どのように人の役に立つのかが見えないと共同研究させてくださいと手を挙げる気にはなれなぁというのが、今日のところの感想。
それでも一応、ここまで、このテーマでエッセイを書いてみていることだし、自分が「韻律」ないし、「韻律論」みたいなものについて思うころを少しだけまとめてみる。
とは言っても自分にとって韻律は、スポーツで言うと、「キレがある」とか、「ノビがある」とか、そういう感覚に関する話で、、十年とか、二十年とか、特定の場のなかで経験を積むことによって、その差異に気づけるようになっていくものって感じがする。感覚が研ぎ澄まされて、はじめて理解ができるもので、勉強によって学べるものだと思ってない。
だから良くも悪くも「フルタの方程式」で、レジェンド級のスターたちが、上原浩治や藤川球児の球質がすごいって意気揚々と語ってみたいな感じで、その論理がどこまで正しいかどうかではなくて、「○○さんが語っているお話を聞けてありがたい。」みたいな状態にどうしてもなりがちだなと思う。
ちょっと脱線するけど、これが漫画になるとどうなるか、例えば、『キン肉マン』でいうテリーマンのように、『ジョジョの奇妙な冒険』で言うスピードワゴンのように、それぞれの作品の中で、経験豊富で、知的で、威厳のあるキャラクターが、解説役を担う。これは、ある意味、「フルタの方程式」みたいなもので、権威がそのまま説得力を生んでいる。
また『バキ』や、『ケンガンアシュラ』では、天の声が、それぞれの強さの理由を説明してくれる。格闘技の経験が全くない人が読んでもそれらが理解できるようにやさしく、懇切丁寧に、説明をしてくれる。それら天の声には、身体がない。世界チャンピオンの言葉のような重みはない。だから「束ねたトランプをちぎるだけの握力がある」だとか、「アメリカと個人で友好条約を結んでいる」だとか、「架空のカマキリと戦う」だとか、様々な魅力的な虚構を織り交ぜて読者を説得させている。そういうテクニックを用いて、作品を面白くしているんだと思う。
プロダクトに直結する価値の高い研究なのか、それとも権威とか、人に紐づいて聞けることの、そのこと自体がありがたいみたいな話なのか、それとも「天の声」的な役割として、短歌というコンテンツそのものを盛り上げるような面白みがあるのか。単に韻律論といってもいろんな人がいろんなことをしていて、まぁそれは確かに空中戦だなーとも思う。






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