今、ここ、どこか24 Hika
- 川上 まなみ
- 1月24日
- 読了時間: 3分
夕日がとても綺麗だね野垂れ死ぬかもしれないね 武田ひか
そんなじゃダメだと焦ったり生活しなきゃと坐ったり
夕日がとても綺麗だね野垂れ死ぬかもしれないね
/ハンバートハンバート「笑ったり転んだり」歌詞の一部を引用
近頃、ハンバートハンバートの曲をよく聴いている。この歌詞がいいと思うのは、ほんとうに「野垂れ死ぬかもしれない」と、暗い穴を覗き込んでいる手触りがあるからだ。
即次的な、ありえないくらい大きな病気とか交通事故とか、戦争とか、政府の崩壊とか、そういった暴力によってプツリと途絶える、あるいはそれによる甚大な後遺症が人生を破壊することへの予感。文字通りの、野垂れ死に。
この曲を聴いている最中などに、マジで野垂れ死ぬかもしれないのだということをよく思い出す。それはここ5年ほどの実感をぬるりと触ってきて、だから毎回ため息がでて、ごくたまに泣きそうだ。
戦争がはじまって、無惨に暮らしが破壊されて、コンビニのおにぎりがたけーとか芸能人の不倫くらいでわあわあという時代が終わって、病気が蔓延してみっともない暮らしが続くこと。そういったことは現にずーっとずっと起こっている。今起こっているだけでなくて、日本という国には80年前までその戦争が日常にあった。いまそれを経験していないのは純粋な偶然がそうさせるだけだ。
「だから幸せに生きないといけない」なんていう帰結ではもちろんなくて、とにかく私たちはこの偶然の生の中で、いつ損なわれてもおかしくない、限りなく心細い一人一人なのだということを突きつけられている。野垂れ死ぬかもしれないというハンバートハンバートの声はその脆さをぐりっと喉に突きつける感触がある。そのあとに続く無音の(だからこそ)の話は今日はしない。
ずっと私は野垂れ死ぬという可能性を直視できていなかった。以前友達に、120歳まで生きたい、ぜったいに死にたくないからみたいなことを言ったらそんなに死にたくないと頑なに主張するのは、育ちに何か問題があるかもしれないねと言われた。すくすくと寵愛を受けて育った気もするのだがなにかあるのかもしれない。そう、みんなが死を運命に内包されているものだと考えていることにいつまでも新鮮に驚く。死が、怖くないのですか?
そう友達に問いかけたくなる一方で、野垂れ死にの気配が、私の「120歳まで生きたい」という願望を日ごとに侵食しているのも事実だ。だから最近は、野垂れ死にを人生のメインシナリオとして考慮し始めた。
戦争に巻き込まれる可能性、大病になる可能性、超インフレで貨幣が無になる可能性。たとえば120歳まで生きると考えていると、2年後に大病を患ったら、絶望のまま立ち直れずそのまま死んでしまう可能性がある。120歳という定規で測ると、私の人生はほとんどが途中終了の悲劇になってしまう。それはほとんど死への恐怖とひとしいということに気づいたのだ。これからは三年刻みで人生を更新していこうと思う。次は30まで生きれたらOK。その次は33歳。みんな野垂れ死ぬ可能性がある。きみもわたしも野垂れ死ぬ。野垂れ死んでもしょうがない。OK。でも、できるだけ頑張っていこう。
最近は『鬼と踊る』を読み返した。
言い訳のような広場がビル街にできるたび悲しゅうて悔しゅうて/三田三郎『鬼と踊る』





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