今、ここ、どこか38 Rin
- 川上 まなみ
- 5月16日
- 読了時間: 3分
グランドキャニオンと白桃 長谷川麟
先日、妻とグランドキャニオンを見に旅行に行った。
このエッセイで、その壮大さについて語ってみようと思っていた。けれど、どんなことを書こうか考えているうちに、ついつい道中の些細な気づきや、妻との会話のほうばかりが面白くなってしまう。
それは、グランドキャニオンで感じた素晴らしさや壮大さを、言葉にすること自体が難しいからだ。富士山を見た感想を書けと言われるのにも、どこか似ている気がする。何を書いても説明文になってしまい、どうにも血の通わない文章になる。
そもそも、岩や大地、砂漠といった語彙のストックが乏しい。日本語にもそういう言葉はたくさんあるはずなのに、岡山で生活してきた僕には馴染みがない。だから、うまく使いこなせる自信がない。
たとえば、砂の粒度の言い分けで言えば、
巨礫(きょれき):256mm以上(ほぼ岩)
礫(れき)/砂利(じゃり):2mm以上
粗砂(そさ):0.5〜2mm
中砂(ちゅうさ):0.25〜0.5mm
細砂(さいさ):0.063〜0.25mm
シルト(微砂)
などの言葉があるらしいが、実際に使ったことがあるのは、砂利と、せいぜい礫くらいだ。
それに、大きい、広い、でかい、といった広がりを表す言葉も、自分の中ではレパートリーが少ないように感じる。そもそも、この広大さを岡山での生活の中で表現する必要がない。「これくらいの気持ちで愛してる」と伝えるときも、体を精一杯広げるのがせいぜいで、言葉にしても「海くらい広い気持ちで」と、その程度に収まる。
短歌には、海の壮大さを前にした歌が多くある。さすが島国だと思う。牧水の歌はすぐに思い浮かぶし、左右社のアンソロジー『海のうた』を読んでも、ああ、みんな海が好きなのだなと感じる歌が並んでいる。
昔、テレビ番組で、海なし県の人が初めて海を見たときの感想を集める企画を見たことがある。日本に生まれても、一度も海を見たことがない人が当時は一定数いたのだろう。
そうした地域の人たちの日本語は、海よりも山に結びついた言葉に支えられていたはずで、そういう暮らしに適した方言だったのではないかと思う。近代短歌のアンソロジーを読んでいると、現代よりも多様な日本語が扱われているように感じるのは、それぞれの土地や環境に根ざした言葉の中で生活が営まれていたからではないか。
そうした言葉の違いは、短歌の手触りにも現れているのだと思う。現代の短歌よりも近代の短歌に惹かれるのは、生活と言葉がより密接だったからかもしれない。
現代の僕たちは、グローバル化の中で、同じ言葉を話し、同じものを食べ、似た価値観の流行の中で生きるようになっている。その流れは確実に強まっている。だからこそ、その中で失われていくものについて考えてしまう。
グランドキャニオンの壮大さは、実際にそこへ行かなければきっと理解できない。それと同じように、実家で食べた白桃の味も、岡山の言葉でしか表現できないのかもしれない。それを正しく受け取れるのもまた岡山で育った人だけだろう。ひどく小さな世界の短歌になるのかもしれないけれど、長い人生をかけて短歌に取り組むのなら、そういう寄り道をしてもいいのではないかと思う。






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