今、ここ、どこか8 Hika
- 川上 まなみ
- 9月27日
- 読了時間: 3分
読むための時間 武田ひか
アメリカでアルバイトをしていた時期がある。
しかも電波の通じない高い山に囲まれた国立公園。当時まだ19歳、勘と勢いだけで決めたはじめての海外だった。お金をもらいながら英語も練習できるし良さそうじゃんの結果、遊び場もなくインターネットもなく、英語を使って深く友達になれるわけでもなく、あるのは高い山といくつかの本。
しばらくしてのチェコの四年間はネットもあるしカフェもあって便利さでいえばまるで違うし、友達もできた。でもアメリカに滞在した当時とは違って英語はしゃべれるようになったけれど、第一言語がチェコ語である以上、チェコ人同士の会話がわからなくなるタイミングが頻繁に存在する。八年前のアメリカの二ヶ月も、このチェコという国でも、言葉がわからなくなるときの静かさがいつもある。
そうして訪れるのは、ひときわ本が読める季節だった。
読書を楽しみにしていた。とてもとても楽しみにしていた。来る前からたくさん本が読めるだろうと予想していた。だからこの四年間は私にとって色んな意味を持っているけれど、ひとつに本を読むための時間でもあるのは間違いない。
この国に来てからまだ二ヶ月しか経っていないけれど、日本語で書かれた手持ちの本のうち16冊を読み切ってしまった。残すは『統計学入門』のみで、眠くなるので最後に取っておいたのだ。寝る前に睡眠導入のためも併せてすこしずつ読んでいる。
友達にすすめてもらった角田光代のエッセイなんか、もう二回も読んでしまった。〈ビールとともに赤スープに浸した肉や野菜を食べていると、頭がわーんとしびれてくる。耳がきーんと遠くなってくる。それくらい辛く、そして、うまいのだ〉。練り上げられて軽いお気に入りの一節をひいてきた。『恋をしよう。夢をみよう。旅にでよう。』と題された率直さも爽快だ。そう、手持ちの紙の本は読み切ってしまったので、いまはKindleで本を読んでいる。漫画も読む。購入済みの漫画もほとんどを読み返して、いまは『A子さんの恋人』の五巻からがこわくて、その先をなかなか読み返せないでいるのだった。
そういえば、いつから本が読めなくなったのだろう。いや、読めていないわけではなくて、じっさいはフルタイムで働いているときも暇なときでもいつも読んでいるんだけれど、からだの芯から読んでいる瞬間がどんどんと少なくなっているように感じている。二十歳を過ぎたあたりからだろうか。思えばその頃から本が頭をすりぬけていく感覚があると思う。なぜなのかはわからない。
言葉がわからないというのは不思議な恩寵だ。ある人にとってはひどい苦痛なのかもしれない。わたしだって英語でもチェコ語でも完全に考えや感情を表せるわけではなく、全てをかんぺきに聴き取れるわけではなく、しんどいなあといつだって感じている。しかしその結果として現れてくる静かさとは得がたく、そのような中に身を置くことは喉が潤っていくように気持ちがいい。
この日々がぶじに過ぎて、ここから十年二十年と経っても変わらず生きていたら、言葉のわからない場所に再度行きたいと思う。違った生活の彩りの、そこにぴったりとはりついている静かさのさなかで、わたしはまた本をゆっくり読みたい。
東直子の歌集も読み返した。
予感といううすいふくらみ唇をぬらしてアプリコットをかじる/東直子『春原さんのリコーダー』
こんなにもみずみずしい歌集だっただろうか?
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